【学校に行くか?行かないか?】公教育の歴史ー明治ー|大学生のブログ|教育時事
前回は,
大まかに江戸以前の教育の歴史を学習しました。
今回から,明治へと進んでいこうと思います。
今日もやっていきましょう!
=公教育制度の設立=
1871年の廃藩置県に伴い,統一的な教育行政のために文部省を設置します。
国民意識の形成と富国政策の推進,不平等条約の改正のためには,国民全体に正しい知識を導くことが重要視されていました。
1872年に「学制」が公布されます。ここでは,実学主義(習ったことが実生活で活かせたらいいよね)と国民皆学主義(みんな勉強しようね)を原則としていました。
寺子屋の教育は1人の師匠が年齢の異なる生徒を相手に,教材も内容も異なる個別教授(1対2の学習塾的な)でしたが,近代学校教育では,一斉教授法と実物教授法が導入されました。
一斉教授法が,今日の学級の授業形式(1対複数)で,実物教授法が,実物を通して学ぼうね!というものです。
=教育の目的とナショナリズム=
初代文部大臣の森有礼は,教育の目的をナショナリズムの形成として捉えていました。
圧倒的な西洋列強に対応するためには,国としてのまとまりや,一人ひとりが自国のために尽くす国民が不可欠だったのです。
国民化において利用されたのが「天皇」の存在でした。
「国家」が「天皇」と絡み合って立ち上がり,「国民」は「臣民」ともたれ合って,創り出されます。
この<天皇の国民>という明治的なナショナリズムが,やがてウルトラ・ナショナリズムを生み出すこととなるのです。
1890年に発布された教育勅語は,天皇を統治的な権力と精神的な権威を兼ね備えた絶対的なカリスマとして君臨させます。
教育とは,権利や義務などではなく,天皇からの「恩恵」によって施されるものとされていたのです。
小学校は,「天皇」=「国家」を祝祭する儀礼空間となっており,国民づくりのための仕掛けが,現在でも「学級」や「学年」として残っています。寺子屋とは異なる,同一空間での共時的・集団的な経験が,「国民」=「臣民」としての意識を醸成される場となっていたのです。
教育課程や教育内容も明確に国民づくりを求めるようになりました。
国目線では,人材を育てる際,優秀であると同時に国家を裏切らない人材を育成する必要がありました。
時代は進み,初等教育・中等教育・高等教育の接続関係が強く形成されるようになると,どこで学んだかは問わない「学力」よりも,どこで学んだかを問う「学歴」が重視されるようになり,これが現代の問題へとつながります。
さらに,帝国大学を頂点としたエリートコースの設置により,学びにおいてもヒエラルキーが存在することとなり,学歴競争も激しさを増します。
「教育」は主に小学校で,「学問」は主に帝国大学が担うことで,「学問」と「教育」が切り離されました。
ここでは,「教育」を他律的・受動的営みとし,「学問」を自律的・探究的営みとしています。
「学問」を行うエリートも「教育」を必ず受けさせることで,「国民」=「臣民」という意識を持った,国家に都合の良い優秀な人材を育成することを可能にしたのです。
=教育の印象=
明治の公教育の歴史を見てみると,どうも「教育」=「洗脳」のように見えてしまいます。
明治の公教育で培われたナショナリズムは今後ウルトラ・ナショナリズムとして,日本を戦争へと導いていくのです。
それでは,また次回~